梨は、古くから食用にされており、弥生時代(1~2世紀頃)の遺跡から炭化しているものの梨の種が出土しています。 稲作と同じ時期に大陸から持ち込まれたようで、最も古い栽培果実の一つとも言われています。
梨の名は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された日本書紀にも登場し、持統天皇が栽培を奨励している記述もあります。
また、平安から鎌倉時代にかけての古典文学にも数多く散見されます。この様に梨は、古くから日本人に親しまれてきた果物のひとつで、江戸時代後期に入ると因幡、三河、相模、美濃、上州、甲斐,信濃、越後国など全国と云えるほど各地で盛んに栽培され、100品種以上もあったそうです。
南関東に位置する市川市における梨の栽培の歴史も、今から約300年前の元禄時代に始まったとする説もありますが、一般的には220年前くらいの歴史があると云われています。
市川に初めて梨を伝えたのは寺子屋の師匠をしていた「川上善六」という人でした。川上善六は当時の知識人と言える人で、特に殖産興業に熱心で、貧しい村民の生活を救うのには土地にあった特産品を作り出すほかないと考え、どんな作物が合うか研究を続けたところ、梨の栽培が適していることが分かりました。そこで美濃国大垣(おおむね現在の岐阜県の南部)から梨の枝を持ち帰り、葛飾八幡宮の境内で試験栽培しました。
当時の交通はもちろん徒歩ですから、市川まで十数日を要する道中、梨の枝を枯らさないために途中の村々で大根を求めてそれに挿し、大変な苦労して八幡まで持ち帰ったそうです。
2020年8月1日号の広報いちかわで「善六さん市川のなしをつくる」が掲載され、市川市で梨の栽培がどうして盛んになったのかイラストも交え詳しく紹介されています。ぜひご一読下さい。
市川の不動の産地形成には、生産者のたゆまぬ努力と育種にあります。先人から受け継ぐ技術を、営農意欲が高い農家が承継し県内はもとより全国屈指の梨産地を形成しています。 (出典 / JAいちかわ・市川市市役所)